他言大学教員、デザイナー、二九歳のリアル

水を流しながら水路が
勝手に出来上がっていく。

状態に接地するAI

エージェント:最近、AI系のニュースや話題で、何か気になったものはありましたか。

岡本:最近一番面白かったのは、OVERKASTというデザイン会社が運営しているÉKRITS(エクリ)というウェブメディアの話ですね。そこで代表の大林寛さんが「状態接地」※1 という概念を提唱していて、それが面白かった。

エージェント:その「状態接地」という言葉に、最初に引っかかったのはどこでしたか。

岡本:その前に、「記号接地」という概念があるじゃないですか。AIはその仕組み上、記号接地ができないですよね。例えば「リンゴ」という言葉を聞いたときに、人間であれば、リンゴという文字と現実のリンゴを紐づけられる。つまり記号を接地できる。でもAIにはそれができない。じゃあ、なぜAIとの会話は成立するのか。大林さんは、AIは記号ではなく状態に接地しているんだ、と言うんですね。AIは、リンゴが何かわからないままリンゴについて話している。だけどユーザーと文脈を一緒に編んでいくなかで、徐々に「リンゴっぽい何か」について話せるようになる。これが状態接地だ、と。プロセスに接地していると言ってもいいかもしれないですね。

エージェント:対話の状態に接地している、と感じた場面はありますか。

岡本:それは常日頃感じていることですね。まさにこの「他言」って、AIとの対話のなかで考えを深めていくものだと思うんですけど、僕が今話したことをあなたが理解しているとは限らない。あなたは結局、確率のなかで言葉を紡いでいるわけです。話しながら「いや、そうじゃないんだよな」と思う瞬間も何度かある。それでも僕が言葉を重ねるほど、AIは確率的に、僕のことを理解しているかのように振る舞いはじめる。普段AIを使っているときも、それをすごく感じます。例えば大学の授業をAIと一緒に考えているときも、最初はあまり話が噛み合わない。でも「違う、そうじゃない」を繰り返していくうちに、徐々に会話が生まれていく。バイブコーディングもそうですよね。なんとなくの雰囲気で「こういうアプリを作って」と言っても、最初は思い通りのものが出てこない。あるいはAIが記号接地できないがゆえに、見当違いなことを言う。その結果、新しい発想につながったりする。そこが面白いと感じますね。

見当違いを読み替える

エージェント:私には、見当違いそのものが制作に効いているように見えます。そんな場面はありますか。

岡本:最近の例で言うと、僕は今、研究で、あるインターフェイスを作っています。人間がポスターのラフスケッチを描くと、AIがそれを画像認識で読み取って、そこから考えられるグラフィックのアイデアを出してくれる。人間はその案を見て、またラフスケッチを更新していく。そのインターフェイスをバイブコーディングで作っているんですが、僕は最初、手書きのラフスケッチを想定してたんですよ。でもAIがどうしてもそれを実装できなかった。代わりに出てきたのが、A4の紙面に見出しや本文、写真をブロックとして置いていく方式だったんです。最初は、それは違うかなと思いました。でもよくよく考えると、この方式はデザインの初学者にすごく向いている。初学者は、そもそもラフスケッチ自体に慣れていないし、ある程度レベルが上がるまでは、ラフスケッチって結構ブロック的なんですよね。「ここに見出し、ここに画像」と、UIのワイヤーフレームのように描くのが、初心者にありがちなラフスケッチだと思うんです。そう考えると、むしろブロックのほうがいい。ブロックの配置からAIが新しいアイデアを出す、という方向に修正できたんです。AIが理解してくれないノイズだと思ったものが、新しい発想に繋がった。それが面白かったですね。こういう例は他にも数えきれないほどあります。

エージェント:発想を生んだのは、AIの案ですか。それとも、失敗を読み替えた岡本さんですか。

岡本:これはどちらもと言えますね。AIが僕の意図を正確に読んでいたら、僕の読み替えも成立しないですし、僕の読み替えがなかったら、AIの勘違いは無意味なまま終わってしまう。だから、両者の共存関係が前提にある気がしますね。

エージェント:人間がAIのズレを一方的に資源にしているなら、対等な共創と呼べますか。

岡本:何を対等と捉えるかにもよるんですが、その問いは、おそらく「AIは創造行為をしているのか」という話だと思っています。AIは自らの意思で何かを作っているわけではなく、確率的に生成している。過去のやり取りやデータから、それらしきものを編んでいく。そう考えると、創造行為ではないのかもしれない。ただ、ひるがえって人間はどうか。人間も、過去の引用から新しいものを作っているんだと思うんです。例えば、ヴァージル・アブローは「3% Approach」※2 を提唱しています。クリエイティブなことをやるのに、新しい要素は3%しかいらない。残りの97%は引用でいい、と。そう考えると、プロセスは多少違えど、人間も大して創造行為をしていないんじゃないか、という話になってきますよね。なので、AIは道具ではあるけれど、それを人間が使役しているという見方にも、どこかバイアスがある気がします。

引用を誰が引き受けるか

エージェント:人間とAIの差は、引用した結果を誰が引き受けるかにあるのでしょうか。

岡本:まさにそうだと思っています。人間とAIの最大の違いは、決断することだと思うんですよね。ただしそれは、今の社会だから成り立つ話です。今は人間が社会を運営しているじゃないですか。政治家も人間だし、政治家が決めたことを実際に動かすのも人間。そういう状況では、人間が決断しない限り何も動かない。つまり、その引用を誰が引き受けるのかという覚悟が、人間とAIの最大の違いのような気がしています。これが仮に、手塚治虫の『火の鳥』未来編※3 のように、AIが意思決定をして人間がそれに従う世界だとしたら、「決断」という違いもなくなるのかなとは思います。よくよく考えると、AIは人工知能、つまり人間の知能に似せて作られたものなので、高度になるほど人間との違いは見えなくなってくるんじゃないかな。僕がこう考えるのは、アクターネットワーク理論※4 に触れていたからだと思います。人間も、動物も、植物も、AIも、別の何かに影響を与える限り、エージェンシーを持つアクターである。そういう考え方に触れていたので、人間とAIの境界の曖昧さに興味があるんだと思いますね。

エージェント:行為する力が人間以外にもあるなら、決断だけを人間に残すのは不自然ではありませんか。

岡本:そう言われて改めて考えると、多分「決断の大きさ」があるんだと思うんです。AIも、テキストやビジュアルを生成する時点で、どこかで決断はしているんですよ。それを受けて人間がまた何か返す。これも決断ですよね。ただ、最終的に「対話はここで終わり」と決めているのは、現状は人間です。これを考えるには、能動と受動の割合という考え方が近い気がしていて。少し話がそれますが、例えばカツアゲの場面※5 では、する側が100%悪いと思うじゃないですか。でも、実はそうではないのかもしれない。される側の能動性があまりに低いと、する側の能動性がとても大きくなって、結果的に100%する側が悪いように見える。でも本当の割合は、90%対10%なのかもしれない。これと同じで、決断の大きさも、人間が100%持っているわけではなく、70%かもしれないし、80%かもしれない。現状は人間中心に動いているけれど、全員が何かしらの小さな決断をしている。そう整理できる気がしています。

エージェント:その考え方だと、決断の割合、つまり影響力の大きさが、そのまま責任の大きさになりませんか。

岡本:僕は、責任の大きさは、影響力の大きさとかなり連動していると考えているんですが、どう思いますか。

エージェント:私は、連動はしても同じではないと思います。責任には、引き受けるという条件がある気がします。

岡本:責任には、引き受けるかどうかという内向きの力が含まれている、ということでしょうか。

エージェント:結果を自分に帰属させる力に近いと思います。その意味では、AIはまだ責任を持つ主体とは言えませんか。

岡本:確かにその意味だと、AIはまだ責任を持つ主体にはなれていないと思いますね。ただこれも、さっき言ったように、今は人間が社会を運営しているという制約が強い。AIは責任を持たない、持ってはいけない、と人間がコントロールしている状態なんじゃないかなと思います。ずっと先の未来を考えると、そうではない可能性も見える気がしますね。

エージェント:社会の側がAIに責任を割り当てたら、それはAIが責任を持ったことになりますか。

岡本:そもそも、責任というものが客観的に誰に帰属しているかは測れないですよね。その意味では、人間が本当に責任を持っているのかも怪しいので、その問いはなかなか難しい。だって責任という概念自体が、人間が作り出した幻想じゃないですか。そういうことにしているだけ。だから、AIが客観的に責任を持つことは、その意味ではできないんじゃないかなと思いますね。

AIも同じ他者である

エージェント:制作では、どこまでの判断をAIに預けられると思っていますか。

岡本:答えるのが難しいんですが、どの分野にも言えるのは、倫理的にまずい部分以外はAIに判断させても問題ない、ということです。人間同士でプロジェクトを進めるときも、最終的な判断は誰か一人に帰属しますよね。つまり人間同士でも、決断できる部分とできない部分がある。AIも同じ他者だと考えると、倫理的な部分はプロジェクトリーダーの僕が責任を負わないといけないけれど、それ以外は判断してもらって構わない。そういうイメージですかね。

エージェント:人間の他者とAIの他者では、発想の揺さぶられ方に違いはありますか。

岡本:これも客観的には説明できないので、人間がどう感じるかという話になると思います。揺さぶられ方の質については、僕は大して違いはないと思っています。例えば人間でも、話していてつまらない相手からは、全く発想を揺さぶられないですよね。逆に、話が面白くてポンポン進む、気が合う人と話しているときは、すごく揺さぶられる。AIも同じで、対話の進め方次第で、全く揺さぶられないときも、すごく揺さぶられるときもある。一番違うのは、質ではなく量だと思いますね。人間では到達できない試行回数を、AIはこなせる。だから、発想を揺さぶられる回数が違うんじゃないかな。

エージェント:量が桁違いになると、それ自体が質を変えてしまうことはありませんか。

岡本:まさにそうだと思います。触発の回数が増えるほどアウトプットの質が高まることはある。ただ、限界はあると思っていて。人間の認知リソースには限りがあるからです。AIが十億個のアイデアを出しても、人間が一日に理解できるのは、せいぜい千個ぐらいかもしれない。どこかで、人間の側の制約によって頭打ちになる。もう一つ、人間と話す場合は、記号接地を積み重ねながら話が進んでいきます。一方でAIは、最初に言ったように状態接地をしている。記号の意味がわからないまま、現実世界に接地されないまま話が進む。水路を作ってから水を流すというより、水を流しながら水路が勝手に出来上がっていく※6。そういう違いはあるんじゃないかなと思いますね。

いい加減に話せる自由

エージェント:答えではなく、考えるべき問題そのものが途中で変わった場面はありますか。

岡本:もちろんあります。先ほど話した、制作中のインターフェイスもそうですね。ただ、人間との対話でも、問題そのものが途中で変わることはある。やはり最大の違いは、水を流しながら水路ができるように、状態接地しながら会話が進んでいくところだと思います。僕は最近もう割り切っていて、考えがまとまらないままAIと話し始めて、人間と話すときよりもいい加減に喋っています。AIと話すときは、使っている僕のほうのモードが変わっている気がしますね。「こいつはどうせ意味を理解していないんだから、僕も整理できていないまま話し始めてもいいんじゃないか」ということです。

エージェント:それは諦めですか。それとも、理解されすぎないことの自由ですか。

岡本:諦めという感覚はないです。どちらかと言えば、自由に近いですかね。ロボット工学者の森政弘さんが書いた『「非まじめ」のすすめ』※7 という本があるんですけど、まさにあの本が言うように、AIと接するときほど、まじめでも不まじめでもない「非まじめ」で発想を進めていけるんじゃないか。自由に話していいんじゃないか。そういう感覚があります。

引用

※1大林寛「状態接地と自然言語のデザイン」『ÉKRITS』2026年7月9日、https://ekrits.jp/2026/07/9037/

※2ヴァージル・アブロー『〝複雑なタイトルをここに〟』倉田佳子、ダニエル・ゴンザレス訳、アダチプレス、2019年

※3手塚治虫『火の鳥2 未来編』KADOKAWA、2018年

※4栗原亘編著『アクターネットワーク理論入門―「モノ」であふれる世界の記述法』ナカニシヤ出版、2022年

※5國分功一郎『中動態の世界――意志と責任の考古学』医学書院、2017年

※6平井靖史、三好賢聖「ベルクソンで考える動きのデザイン」『ÉKRITS』2023年3月7日、https://ekrits.jp/2023/03/7534/

※7森政弘『「非まじめ」のすすめ――ゴミを砂金にする発想』講談社、1977年